11 years ago
アオギリにたくして
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雑談
高橋です。
広島では、来年3月に封切の「アオギリにたくして」の撮影が行われ、昨日が広島での撮影最終日でした。
原爆と復興を題材にした映画です。
↓
http://aogiri-movie.net/
知り合いが関係しており、「ちょっと撮影現場を見に来ない?できればエキストラで出て。」と連絡を受けました。「映画にでるのはちょっと・・・。でも撮影現場にちょっとの間、顔を出すのはいいよ。」と撮影現場にお邪魔してきました。
平和公園の施設内の現場には、「風見しんごさん」「池永憲彦さん」、舞台女優の「塩出純子さん」の姿がありました。
私は被爆2世です。祖母や母は、爆心地から南2キロの自宅で被爆しました。
広島で育った関係で、小さなころから原爆の話を聞いて育っています。
原爆と復興をテーマにした映画では、よく「原爆(戦争)の悲惨さ」を背景として、「復興する生命の力強さと美しさ」を題材としています。そして、「悲惨さ」を強調する方途として、「原爆落下直後の様子」を描写しています。
しかし、私が最も問題と考えているのは、「原爆落下直後の様子」ではなく、「原爆投下の経緯」です。
昭和20年3月には、東京大空襲がありました。
当然、そのニュースは広島市民も知っていました。
そこで、広島市のはずれに、飛来情報を伝達する「防空施設」を設置強化し、市民も防空壕を作り、防災訓練を受けていました。
昭和20年8月6日早朝、広島市の北(山)から南(海)に向けてB29が飛来しました。
当然、北面の防空基地が発見し、広島市内では、防空警報が鳴り響きました。
しかし、B29は爆弾を投下することなく、海に抜けていきました。
しばらくして、防空警報が解除されました。
しかし、B29は再度大きく右に旋回し、広島市の上空に現れ、原爆を投下し、空中で爆発させたのです。
なぜ、東京ではなく広島だったか、なぜB29はいったんは広島市の上空を通り過ぎて再度飛来したか?
その理由は、アメリカが、「放射線が人体に及ぼす被害のデータを長期的に入手したかったから」と言われています。
広島は、北、東、西の3方が山に囲まれて、一方(南)だけ抜けている盆地のような地形です。いわゆる放射線が「こもる」ような地形なのです。
これが、広島が投下対象となった原因と考えられています(長崎も同様の地形です。)
また、「放射線が人体に及ぼすデータ」を欲すれば、原子爆弾の熱線を、できるだけ人間が直接浴びてほしいところでしょう。
人は、小さな穴倉から出てくると下ではなく、必ず上を向くそうです。
そこで、B29が一旦通り過ぎることで、市民を防空壕から引き出して上を向かせて、全身で、原子爆弾を浴びせたかったと言われています。
このような緻密な計算をするときの人間の気持ちはどんなものだったのでしょうか?
「人間をモルモットとしてしか考えていない。」心境が問題だと思います。
戦争は悲惨です。それが軍人でも、一般人でも、戦場でも、住んでいる街でも。
焼夷弾の計画と、原子爆弾の計画。その目的の違いは、「せん滅させるか、じわじわと死んでいくデータを取り続けるか。」ではないかと思います。
私は、アメリカの行為を批判するつもりはありません。
昭和20年当時、日本を始め、他の国家も核爆弾を開発していました。
ただ、アメリカが最初に手にしたにすぎません。
もし、仮に、当時の日本が核爆弾の開発に成功していたら?空母が残っていたら?ドイツからジェット戦闘機の技術を輸入していたら?
必ずしも、「日本なら原子爆弾を落とさない。」という保証はなかったと思います。
人は、あるキッカケで人ではなくなる。
原子爆弾でも、特攻隊計画でも同じです。
そこに、底知れない戦争の恐ろしさと恐怖を感じるのです。
ちょっとおどろおどろしいお話になってしまいました。
撮影の合間に、風見しんごさんや、塩出純子さんと記念に写真をとってもらいました。
お2人とも腰が低く、とても気さくな方でした。
映画の成功を祈念しています。
広島では、来年3月に封切の「アオギリにたくして」の撮影が行われ、昨日が広島での撮影最終日でした。
原爆と復興を題材にした映画です。
↓
http://aogiri-movie.net/
知り合いが関係しており、「ちょっと撮影現場を見に来ない?できればエキストラで出て。」と連絡を受けました。「映画にでるのはちょっと・・・。でも撮影現場にちょっとの間、顔を出すのはいいよ。」と撮影現場にお邪魔してきました。
平和公園の施設内の現場には、「風見しんごさん」「池永憲彦さん」、舞台女優の「塩出純子さん」の姿がありました。
私は被爆2世です。祖母や母は、爆心地から南2キロの自宅で被爆しました。
広島で育った関係で、小さなころから原爆の話を聞いて育っています。
原爆と復興をテーマにした映画では、よく「原爆(戦争)の悲惨さ」を背景として、「復興する生命の力強さと美しさ」を題材としています。そして、「悲惨さ」を強調する方途として、「原爆落下直後の様子」を描写しています。
しかし、私が最も問題と考えているのは、「原爆落下直後の様子」ではなく、「原爆投下の経緯」です。
昭和20年3月には、東京大空襲がありました。
当然、そのニュースは広島市民も知っていました。
そこで、広島市のはずれに、飛来情報を伝達する「防空施設」を設置強化し、市民も防空壕を作り、防災訓練を受けていました。
昭和20年8月6日早朝、広島市の北(山)から南(海)に向けてB29が飛来しました。
当然、北面の防空基地が発見し、広島市内では、防空警報が鳴り響きました。
しかし、B29は爆弾を投下することなく、海に抜けていきました。
しばらくして、防空警報が解除されました。
しかし、B29は再度大きく右に旋回し、広島市の上空に現れ、原爆を投下し、空中で爆発させたのです。
なぜ、東京ではなく広島だったか、なぜB29はいったんは広島市の上空を通り過ぎて再度飛来したか?
その理由は、アメリカが、「放射線が人体に及ぼす被害のデータを長期的に入手したかったから」と言われています。
広島は、北、東、西の3方が山に囲まれて、一方(南)だけ抜けている盆地のような地形です。いわゆる放射線が「こもる」ような地形なのです。
これが、広島が投下対象となった原因と考えられています(長崎も同様の地形です。)
また、「放射線が人体に及ぼすデータ」を欲すれば、原子爆弾の熱線を、できるだけ人間が直接浴びてほしいところでしょう。
人は、小さな穴倉から出てくると下ではなく、必ず上を向くそうです。
そこで、B29が一旦通り過ぎることで、市民を防空壕から引き出して上を向かせて、全身で、原子爆弾を浴びせたかったと言われています。
このような緻密な計算をするときの人間の気持ちはどんなものだったのでしょうか?
「人間をモルモットとしてしか考えていない。」心境が問題だと思います。
戦争は悲惨です。それが軍人でも、一般人でも、戦場でも、住んでいる街でも。
焼夷弾の計画と、原子爆弾の計画。その目的の違いは、「せん滅させるか、じわじわと死んでいくデータを取り続けるか。」ではないかと思います。
私は、アメリカの行為を批判するつもりはありません。
昭和20年当時、日本を始め、他の国家も核爆弾を開発していました。
ただ、アメリカが最初に手にしたにすぎません。
もし、仮に、当時の日本が核爆弾の開発に成功していたら?空母が残っていたら?ドイツからジェット戦闘機の技術を輸入していたら?
必ずしも、「日本なら原子爆弾を落とさない。」という保証はなかったと思います。
人は、あるキッカケで人ではなくなる。
原子爆弾でも、特攻隊計画でも同じです。
そこに、底知れない戦争の恐ろしさと恐怖を感じるのです。
ちょっとおどろおどろしいお話になってしまいました。
撮影の合間に、風見しんごさんや、塩出純子さんと記念に写真をとってもらいました。
お2人とも腰が低く、とても気さくな方でした。
映画の成功を祈念しています。
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